アンヂィズキット

いろんな意味で演ずるひと。 芝居・音楽・絵・言葉をサイクロン方式に小出しにして遊びます 。

『二重生活』@シネリーブル梅田にて鑑賞

監督:岸義幸
出演:門脇麦菅田将暉長谷川博己リリー・フランキーetc


人間はなんのために生きるか、
なんて考えたこともなかった。
感情にしか興味がないからかもしれないけど
哲学とはよく見えないから近づくと云うか
もっと見たいのでめくると云うか
なんだかあけすけな欲求のような気がしてきた。
勿論、よくわからないことを探求すること、明白にすることは
悪いことではないけれど、
踏み入らなくていいところをまるはだかにしてしまうことは
「哲学」と云う一見格好いいような語感盾に隠れているだけで。
感情ばかりを重視してきたわたしには
人間は自分の中心にある自分でもわからない本心のまわりに
幾重ももやもやした感情が綿菓子みたいにまとわりついていて
其れは、見栄だったり欲だったり恥じらいだったり思いやりだったり
また別の思惑が重なっていたり
ひとに因って複雑さはちがっていて、
よく見えないのがふつうだと思うし
わからないから好きなひとのことを知りたいと思うし、
自分を探求するときも其れらを少しずつ取り除いて少しずつ知っていくのがいいと
思っていた。
はた。此れも哲学と云うのだろうか。
でも、其れは普通に人間の成長の過程だと思うのだけどどうだろう。

理由のなかった尾行にはまっていくことで
特別視して仕舞っていたり自分の感情と絡まっていく。
主人公は其れで自分の人生の足りない部分が満たされたと云ったけれど
其れは多分普通にひとびとが映画をみたり本を読んだり、音楽を聴いたり
テレビで誰かの人生を垣間見たり、
然う云う満たされ方なのだと思う。
若しくは、使命感のような理由。
いけないことの理由をもらって、のめりこんでいく感じ。
思い込みも此の類いなのかもしれない。

きっと何のために生きてるかなんて本当には答えは出ないし、
探したり知ろうと動いていることが生きている糧だったりするのだし、
もし達観したつもりで其れ以上無いと思い込んでしまったり、
苦し紛れに答えを出してしまうと、
生きている意味を見失って仕舞うのかもしれない。
わからないことってきっと大事なんだと思う。


『共喰い』のふたりだーとか
海月姫』のふたりだー水族館だー
とか思ったのはエンドロールがだいぶ過ぎて
頭がフラットになってからだった。
門脇麦菅田将暉の演技が無造作でよかった。
演技の中には無駄なものがなくて
言葉がなくても明確な感情が見てとれた。
いい作品でした。