アンヂィズキット

いろんな意味で演ずるひと。 芝居・音楽・絵・言葉をサイクロン方式に小出しにして遊びます 。

やさしさ水位に溺死する夜。

好きな理由はなに?
ーやさしいから。


そんな世間的に定番らしいこたえを
あたしはした覚えがない。
やさしいひとが居なかったわけでもない。
ひとなみ以上でないにしろ
まったくやさしくされなかったわけでもない。
でもやさしさがいちばんの基準ではなかったし
波長があわないと、其れは好意にはならないものだと思っていたから、
其れよりもっと
にちじょうのちいさなせってんやはっけんに
よろこびやしあわせをみていたかもしれない。



「やさしい」と云うのは、

すきなものを食べて
「美味しい」とか「あまい」とか「歯ごたえがいい」とか「まろやか」とか
「芳ばしい」とか「ぴりぴりする」とか「毎日たべたい」とか「月イチぐらいで」とか
「此れが無くては生きていけない!」
とか云う選択した感想のひとつであって
オプションでぜったいあるひとつではないと
あたしは思っている。



やさしさとは、つねに波打っているものだ。



やさしさ水位は常にゆらゆらと水面を上下していて
ときにはおおき過ぎるような揺れで
でも落ちついたらとぷんと
たえまなく心地のいい同量であるもので、
どんどん増してゆく
増す為に向上してゆかねばならない
ってもんでもないと思う。


其の心地いい水位がおなじひとを
すきになるのだと思う。
ともだちとして
こいびととして
にんげんとして。


でもひとは
やさしさ水位に慣れてしまう。
慣れたら
其れはふつうになって仕舞って
あの頃みたいにやさしさを感じなくなって
って
ちがうやさしさを探しに行って仕舞うのだ。


まるですいかのまんなかだけ齧ってゆくみたいだ。


当たり前に吸っていた空気に
不純なものがまじりはじめる。
日常生活が脅かされるくらい。
失くしてはじめて
あたりまえにあったけど
とても大事だったことに気づく。


あたりまえってなんだろう。
なれるってなんだろう。
ごうまん?
ごうよく?
たいだ?


其れでもなお
愛情がほしくて
確かな何かに触れつづけていたくて、
水位をあげようと
努力して無理をし続けて
じぶんじしんが溺れて仕舞うくらいの量になって
苦水をがぶがぶのみ平静視点の高さを失ったり、
相手をやさしさ水に漬けこんで
満たされ感覚のふやけたひとにしてしまったりするのだろう。



日々せいちょうをしたりとどまったりするひととひとのバランスは
けっしてまいにちおなじではない。
だから
ほんとうは
おなじ水位でいることのほうが
ずっとずっと難しいのに。

ひとって
なんておばかさんなんだろうなって
すこしだけかなしくなった。


どうか、どうか、
やさしいなんて云わないで。
あたしはあなたとおなじにかんじる
水面にゆれてかわってみえる
いつもの水位にいたいだけ。