アンヂィズキット

いろんな意味で演ずるひと。 芝居・音楽・絵・言葉をサイクロン方式に小出しにして遊びます 。

水中眼鏡で街を歩こう。

水中眼鏡で街を歩こう。


あたしが高校生の頃書いた詩の冒頭の一文だ。
捻くれた天の邪鬼な視点をもった少年をかいた詩。


実際にリアル水中眼鏡をヘアバンドにして
ライヴなり街へ行っていたこともある。
勿論ちょう昭和な時代にそんなものは受け入れられるわけもない。
でも
人が受け入れようが受け入れまいが
自分が面白いと思ったらなんか突き進んでた。
其処だけは譲らなかった。
おとなの前では借り猫のようにひつよう以上喋らないこどもだったけど。
あの頃の目には何が映ってたろう。


平成の世の中は
変わってることが美徳みたいになった波がきて
結局誰かの真似っこで無理してるようなひとたちがまた
おなじものの波にのってしずかに遠ざかってってる。


変わってるひとと呼ばれたいひとは
たまにとてもまっとうで、
だけども他人の意図を汲まないのに一色でぺっと塗って仕舞ったりする。
安易過ぎる非常ボタンのようで
其れがときどきとてもこわい。


サイレンはいつもおおきなおとで
わんわんと鳴る。



ひととひとがことばを発しながら
交差している点が
電脳社会にはたくさんあって
其れが容易に視れたりする。


たまに
バカなちょうしで言葉を吐きながら
プール監視員風情で
ぼんやりと情景を眺めていることがある。


此のひとはあのひとが云ってることぢゃないことにひっかかって
まったく違うことを否定したなあ
とか
あー。いま此のひとはすこしひるんだようにみえたけど
もうちょっとおしてもだいじょうぶだったのになあ
とか
此のひとが嫌だって思ったのは其の行為自体で
其れについては全然絡んでいいのになあ
とか
つっこみ方ヘタだなあ
とか
オチがないなあ
とか
このひとはいつも気をつかいすぎだなあ
とか
凹んでたけどじぶんで起き上がったなあ
とか
手を貸すのがすきなひとがまた話しかけてるなあ
とか
しずかにくうきをもどすのがとくいなひとが此処にもやってきて
しゅうふくしてったなあ
とか
フォローがじょうずなひとがきょうもおきてる
とか
すてきなことばをつぶやくひとがまたみんなをみりょうしたなあ
とか
さみしくてしかたないひとがことばをたくさんかけちゃってるなあ
とか
こえかけてなかったけどよんでくれてたんだなあ
とか
いまおもったこととちがうことをけいきづけにいってみたなあ
とか
いまきもちときもちががっちりとなったなあ


とか
とか


言葉の交差点に交錯するものが
交じりながら
混じりながら
雑じってゆく。


プール監視員は徐に
頭にのせていた水中眼鏡に手をやり
装着する。


「水中眼鏡で街を歩こう。
 みんな泳いでいるようだよ。
 いいきぶんさ。」



ぶくぶくと沈みそうなひとなみのなかで
暫く息をとめて潜り
狭まった視界世界で溺れそうにゆれながら
もがくようにダンスして
其処から飛び出し
眼鏡をはずした監視員は
現実を現実として見始めるのだ。