アンヂィズキット

いろんな意味で演ずるひと。 芝居・音楽・絵・言葉をサイクロン方式に小出しにして遊びます 。

「唾は上を向いて吐く。」(2007年07月06日の記述)

言葉は時として暴力、
とフィーリングのニューリーダー
須藤寿は云った。
(正確には女子に云わしておるが)


言葉ヅカイ(not 礼儀)は
言葉の持つ恐ろしさを同時に噛み締めながら
其れを使う。


言葉と共に生きてきた。
そもそも主語のない言葉を吐きたがる。


文章の基本が、主語+述語
だと解っててのことです。勿論。


説明解説大嫌い。
やってるうちに冷めていくのは解体故か。
「此が野菜室、此処がバタァやちょっとしたものを入れておくのに適した温度をしているポケットです」
などと うんちゃら 云ってるうちに
ほうら、
牛乳が生温くなってきたよ。
すべてを何かに置き換えたがる。
形容しなければ済まない性分。
比喩と例え、比喩と例え、言い得て妙。


だから
其の縛りが極めて少ない
詩や詞を書くようになって
早20年(笑)
常識人のふりをしながら(少々はみ出し指摘はされてはいるが)
一端の社会生活へ馴染みながらも
自分が持つ拙い言葉リズムを研いでゆくことを
SIDE Bで行う。
否、寧ろ日常がSIDE Bだ(とどこまでも思いたい)。


言葉をキャッチボォルでなく
「玉入れ」のようにカゴで拾い受けたものを
1つ、2つ、
と数えるように
覚えて仕舞うのは
Aの型故の性でせうか。


覚え過ぎるのは宜しくありません。


世のひとは
其れ程に
意識して「会話」と云うものをしないので
其の段差に
脛を強かにぶつけて蹴躓くことなど
よくあるので
あたしは痣に慣れて仕舞った。


無論、言葉遊びはよくやるので
其れは其れなりの面白さを含めてやるので
巫山戯たことであることは
解るであろう(と思うけれども、最近はそんなひとだと思ってるひとが増えてしまったので困惑を覚える)
ので
軽妙な挨拶にさえ
小鹿のような足が震える次第である。


大概
言葉を強過ぎる意見として吐くときは
自分に該当することを含んでいる。


自分にも云うけれど、
と云う客観的、自虐性は
遠慮をなくす。


何度も云っていることだが
答えは1つではないから
あたしはいつも
2つ以上の可能性を手持ちにおいた状態で
敢えて其れを差し出すのだ。
てことを
解っては貰えないのだが
(解り易くしないからなのだが)
あたしは其れを
研ぐことにする。


ああああああああ。


ああああああああ。


其れも
其れも
其れも
ぜんぶ。


ふまえた上でのことですよ。

真上に銃口を向けるのだ。


0
0

0


0



0



o


真下に落ちてきたときに
其れが
脳天から突き抜けるのでなく
あんぐりと開けた口に
アーモンドチョコレイトのように
ぽすりと入って
かしゅりかしゅりと咀嚼して仕舞えるように
なったらいいなと


たまに、空想を、する、のだ。




そして
あたしの日常は
日記として記されない思考の羅列が入り込むので
重そうなことを書いても
結局はちっともで
つるんと
けろんと
してます。


持続力がありません。


ちなみに
今日は
友と当たった招待ライヴに行って、
いいものをみつけました。
とても嬉しくてテンションがあがったのです。


あ、此が日記ですね。
ま、然うなのでしょうね。